トルーマン・カポーティ『カメレオンのための音楽』

カメレオンのための音楽 (ハヤカワepi文庫)

カメレオンのための音楽 (ハヤカワepi文庫)

 久しぶりの読書感想文。ふらっと入った書店で立ち読みした感じが面白かったので購入。漫画と雑誌とドラマ原作ばかりでない、こういう本がぽろっと置いてある本屋は大事にしたいですね。
 最近本が全く読めなかったのだけど、対話形式のものから復帰できそうだとわかったのが、今日の発見。


 カポーティは『ティファニーで朝食を』(村上春樹訳)に入っているものしか読んだことはないです。ホリーは健康で清潔、ぴかぴかの女の子。確かそんな感じの。映画はオードリー・ヘップバーンじゃなくてマリリン・モンローに演らせるつもりだったそうですね、ご本人は。


 この本は、『冷血』*1ライクな中篇「手彫りの棺」、短編集の表題作、そして会話によるポートレート集のざっくり三部構成、らしい。もっとざっくりいえば寄せ集めのような気もする。
 で、まだそのポートレート集の中のひとつ、「うつくしい子供」の一篇しか読んでないんだけどね。カポーティと、マリリン・モンローとの会話。これにすごく惹き付けられてしまってレジに直行、帰ってきてもう一度読んだよ。カバー解説によると、"マリリン・モンローについての最高のスケッチといわれる"作品らしいよ。
 まず日にち、女優コリアーの葬儀というところから始まる。マリリンは彼女の最後の数ヶ月の弟子で、2人を仲介したのが筆者カポーティ。「うつくしい子供」という形容が、ミス・コリアーからどういった経緯で語られるに至ったか、序盤はそれを丁寧に解説する。
 その後はダイアローグ、ときどき括弧つきのカポーティの観察描写。喪服で化粧気のないマリリンがいかに魅力的であるかは、過不足なく的確に写し取られる。喪の黒で覆い隠されても、どこか清潔で新鮮な艶をのぞかせるマリリン。

(彼女が着すべきと心に浮かべたものはというと、ローマ法王に非公式に拝謁する女子修道院長といったいでたちである。髪は黒のシフォン地のスカーフですっかり覆われ、黒いドレスはゆったりと丈も長く、なんとなく借り着のように見え、絹の黒い靴下はほっそりした脚のブロンド色の輝きをぼんやりとさせていた。もっとも、彼女が選んだいくぶん艶っぽい黒のハイヒールや彼女の乳白色の肌の白さを際立たせるような大きな濃いサングラスにしても、そんなものを修道院長が身に付けやしないことは自明のことであろう)

((略)彼女が化粧気なしでいるのを見たことは何度かあるが、今日の彼女は新鮮な感じに見え、見たこともない顔をしている。いったいどうしてそうなのか最初はわからなかった。そうだ! 髪がスカーフで覆われているせいなのだ。ふさふさした髪が見られず、また化粧気も全くないので彼女は十二歳ぐらいに見え、孤児院に入れられた自分の不遇を悲しんでいるおぼこ娘のようだった。(略))


 葬儀で涙し、終わった後に場所を変えつつ会話が始まるのだけど、世話になった人の葬式の後だというのに2人は奇妙にいきいきとしていて、その丁々発止のやりとりに想像力をわあっとかきたてられてしまいました。真面目な演技論、どぎつい下ネタ、くだらない体験談、秘密(かつ自明)の恋、退廃の匂い、タクシーで移動した後の爽やかなやりとり。奔放でウィットがきいてて、どれもこれも豊かな会話。
 カポーティの作家としての手腕があるといえど、これを読んでなお、マリリンを頭からっぽの肉体女優なんて言える人がいたら、私はそいつをひねり潰しちゃいたい。


(追記)
 このポートレートは1955年のこと、『ティファニーで朝食を』は1958年出版。対話に出てくる、マリリンのこの言葉が、『ティファニー…』を書かせるきっかけになったのかな、なんて思いを馳せる。マリリンのための役、でもマリリンのやれなかった役。

「みんなはあたしに演技なんてできないって言うの。エリザベス・テイラーのことも同じふうに言うわね。わかってないのよ。あの人『陽のあたる場所』ではたいしたものだったわ。あたしは、自分にぴったりの役、ほんとにしたい役ってやれないだろうって思ってるの。あたしの顔立ちって、あたしには似つかわしくないんですもの。ちょっと特殊な顔でしょ」

*1:私がいつかは読んでみたいと思いつつ、精神状態に影響しそうなので時期を待ち続けてしまっている同作者のノンフィクション作品