吉田秋生『櫻の園』
- 作者: 吉田秋生
- 出版社/メーカー: 白泉社
- 発売日: 1994/12/01
- メディア: 文庫
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伝統的にチェーホフの『桜の園』*1を上演している、桜に囲まれた女子校の演劇部のおはなし。『桜の園』(d:id:arittake:20090404:p2)自体が「閉じた空間からの出立」をモチーフとしており、それと重ね合わせるように、少女達はそれぞれの「囚われ」から抜け出していきます。
意識的に、顔をコマ内に入れないシーン・人物が多く、コマ運びのメリハリや、テーマをより浮き彫りにさせる効果を出しています。
「花冷え」「花紅」「花酔い」「花嵐」の4章。男女の間柄への抵抗 〜 女性の肉体性そのものへの抵抗へと、テーマがゆるやかにグラデーションを描いていく。
「花冷え」は、男女の間柄になることに戸惑うアツコが、10歳違いの姉、アヤコの独白を聞く。今は結婚を控えた姉も、10年前には同じようにぎこちない恋をしていた。その二重写しのような構造を知った時、アツコは未来から現在を振り返るような気分を知る…。この1章だけでも、もう持って行かれてしまいますね。
「花紅」はちょっとコミカルな章。男の子たちのやさしさを知り、受け止めることで、杉山は不平不満の毎日を抜け出します。その杉山の変化が、連鎖するように、次の由布子へ影響を与えます。
さて、後半2章はちょっと掘り下げて書きます。
「言葉の呪縛」に囚われること
「花酔い」の由布子は、幼い頃に言われた「ませている」という言葉に囚われ、自分の女性性をゆるやかに嫌悪している。特に、好意を持っていた、いとこの「おにいちゃん」からの何気ない言葉が、最も彼女を縛っていた。
高校生となって彼と再会し、その言葉を覚えているかと問う由布子。
もう二度と 聞くことはできないだろう どうか おぼえていて 私は救われたい
なんとなく わかっていたわ… やっぱり おにいちゃんは 覚えていなかった
「ませている」でなくても、「ダメな子」であったり「まじめ」であったり「だらしない」であったり。何気なく言われた一言が、ある人を長く苦しめることが、往々にしてあるものです。
この由布子の会話でもそうですが、「言葉の呪縛」は、その言葉を発した本人から解いてもらえることがほぼない、という性質を持っています。また、言った本人に故意性がなければないほど、呪縛としての強さ・長さを増します。その言葉を打ち消す機会が、限りなくゼロに近づいていくからです。
言った本人に頼れないならば、その呪いには、いったいどう対処していくことができるでしょうか。その一つの例が、次の「花嵐」の章なのだと思っています。
「言葉の呪縛」を解くために
由布子は、「おにいちゃん」にどこか似ている知世子を気にしており、また、その女性くささのないふるまいに憧れていた。しかし、知世子もまた、「男の子みたい」という言葉と、自身の女性的な肉体のギャップに悩み、あえて男の子のように振る舞っていたのでした。自分と同様、呪縛に囚われた人間であることを、由布子は発見します。
呪縛にかかった人間は、その言葉から遠ざかるように行動したり(由布子のパターン)、逆にその言葉に沿うようになっていったりします(知世子のパターン)。これはコインの表と裏のようなもので、どちらにしても、「言葉の呪縛」にコントロールされていることに変わりはありません。
物語の最後に、由布子は、知世子に好意を伝えます。知世子はそれを受け入れます。
「大好きよ」
「うれしい もっと言って」
「好きよ 大好き ほんとうよ」
「うん…」
ぱっと見、同性愛のようでもありますが、私はこの関係を、同性愛ではなく、好意と承認の儀礼とだけ受け止めています。
「言葉の呪縛」は、言った本人を問い詰めることで解決するものではなく、また、ある日突然、魔法が解けるようになくなるものではない。
全く別の時間、別の関係の中で、自分を承認される。そのことが、元々の呪縛を相対的に遠ざけていく。そういった直接的でない解決方法が、自分の知る限りでは、「言葉の呪縛」に対するいちばん有効な手段だと思っています。
その承認のために由布子は行動し、また知世子もそれを承認した。「大好きよ」の言葉は知世子をささやかに救出し、「うれしい」の言葉もまた、由布子を呪縛のスパイラルから跳ね出させる効力を持つ。
異性愛者の2人による、「言葉の呪縛」から互いを救い出すための儀礼が、上記のシーンだったのだと、私は思っています。