空中キャンプ『下北沢の獣たち』

 文学フリマd:id:arittake:20090510:p1)で購入した、空中キャンプ(id:zoot32)さんの本。相変わらずどうお呼びすればいいのかわからなかったので、表題もサイト名にて。
 感想を書き始めるにあたって、「この本とは距離の取り方がすごく難しい」、というのが第一印象。ブログの一読者として長期間その人の文章に接しているため、本を読み進めた時に、そのつど生まれるのがどういう感情なのか、たまにわからなくなることがありました。「この印象はこの小説単体への評価なのか、ブログからの延長線にあるのか」。もちろん文芸の専門家でもないので、そういった場合に適切な距離をはかる技術を持っているわけでもないし。
 あくまで、切り出されたこの本単体について感じたことを書き連ねたいのだけど、うまくいくかどうか。あと、なんとなく、できるだけネタバレのないように書きたいと思います。

アイコ六歳

 文体の魅力に、文字通り、冒頭から「ぴしゃりとおみまい」されてしまった一編。たまらんなぁ。
 みづきとの遊び、林へ行って戻ってくること。非日常との境界をやすやすと超える物語だけども、突飛な感じがせずさわやかなのは、やはりアイコのキャラクターづくりのうまさによるところだと思う。六歳女子は意外と、すでにある程度世の中のものごとを知った、つまり「しっかりした」存在なのだけど、しかし、ここまでクールでタフな六歳女子がいるか? そう考えた時に、あの環境ならむべなるかな、と思わせるだけの説得力がある。
 「出口」について語る部分は、村上春樹を思い出しました。ガムの入った鼠取りの件。『1973年のピンボール』だったかな?
 お母さん、海彦、山彦のキャラクターもはつらつとして、読んでいて単純にうきうきできました。桜の色の洪水が挿入される部分もすばらしい。「お母さん」含め、人々がみんなこうであればいいのに、と、アイコとともに祈るような気持ちになりました。


 脱字をひとつ発見。「十二」に入ったところの次のページ、真ん中らへん(そういえば、この本には頁数がうたれていないのですね)。

「とお母さんいった。」(おそらく「は」の脱字。)

下北沢の獣たち

 猫の「俺」の視点で描かれた表題作。トリッキーだけど、面白く読めました。社会は人間だけにあるものでなく、猫にも社会があり、犬にもまた然り。またそれぞれは独立したものでなく、相互に絡み合って形成されている。犬を散歩に連れて行くとよその犬と交流したがるのは、あれ情報交換だったのかー。


 社会のあり様を描くのに主眼をおいたためか、『アイコ〜』と違い、キャラクター性は強くなく、「俺」含む個別の猫/犬についての人物(?)描写はかなり薄い(そもそも人物でないからかもしれないけど)。後半に出てくる小学生も、坊主頭・野球帽とステロタイプに徹している。それも、時代が一昔前だ。このあっさりした造形は意図したところなのだろうか。最後の話し合いで教師がそれらしく、かつあまり意味のないまとめ方をするあたりは、ニヤリとしてしまいましたが。
 また、風景描写もまた淡泊なのに気がついたのは、以下部分。

 マイクチェックの家は、これといって特別なところのない、シンプルな一軒家だった。
(中略)
どんな家にも佇まいがある。そこにいったいどんな人間が住んでいるのか、家にはそれぞれ表情があり、住む者の思考や価値観をくっきりと反映する。

 後半部分に大きく首肯する、円広志ばりによその家ウォッチング大好きな私としては、「それにしては、マイクチェックの家のディティールがわからないなぁ」とも同時に思うのでした。中略部分やこの後に「リラックスした雰囲気」「たくさんの緑」とは書いてあるのだけども。洗濯物の種類、庭の花木の密度、玄関のドアノブや表札や屋根の素材の趣味、カーテンの閉ざされ方(あるいは開けられ方)、そういうディティールを見るのが私は好きです。自分語りになってしまいました。

犬は、人から離れて暮らすことができないという点で、われわれよりもずっと孤独だ。

 こういう視点には、やっぱりほれぼれとさせられてしまいます。

ひとすじのひかり

 男女2視点が交互に展開する、これもまた面白い構造。もう一度読み返してみたい。アラビア数字の章が女性黒部さん、漢数字が男性コーくんの視点なのだけど、実質「二」からがコーくん視点のはじまりで、冒頭「一」は第三者の視点のように読める。そこがちょっと気になった。
 アイドル時代の仕事の内容について、それぞれの内容に食い違いがある。同じ出来事ひとつとっても、人の受け止め方はこうまで違う、ということをカリカチュアとして描いたものなのか、意に沿わない記憶を変造・抹消してしまったのか(人間はけっこう簡単にこれができる)、単なる人違いなのか。いずれにしても面白い。


 コーくんの行動はストーカーのそれなのかもしれない。けど、「人は誰しも、どうしても取り外しのきかない執着を抱えている」ということに、私はおおいに納得する。
 執着の対象は、恋人、家族、行動様式、名誉、物質的な利益、などなど、人それぞれで、また一生ものの執着もあり、時期的なものもある。コーくんの場合は、その時点での対象が、他人(黒部さん)だったというだけのことだ。
 その執着を冷静にみつめ、暴走させずにうまくコントロールできれば、それは生活の原動力となりうる。コーくんはそれができている。それでいいと思う。


 脱字をひとつ発見。「五」にはいる4行前。

私はいつもそうだったようにおもう(文末「。」の脱字。)