春日武彦『不幸になりたがる人たち』と草なぎ剛君

 週末に『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』(名作)を観て泣き、その後「又兵衛役は草なぎ君じゃねーだろー」と憤り、昨日から表題の本を読み始め、今朝になったら容疑者逮捕の速報が流れていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090423-00000501-sanspo-ent

 「CMや番組はどうなるのか」とシリアスに叫ぶマスコミの皆さんに対して全く礼を失することでありますが、速報を受け取った私にとっては、今回の事件は単にユーモラスで微笑ましい出来事ですなぁ、という呑気な感想しかなく、ネット上でも、地デジのプロモーションなんかより断然面白いコンテンツとして消費されつつある様子。
 また個人的には、普段から「草なぎ君は変な人なのに、どうして品行方正、人畜無害なパブリックイメージを植え付けようとされているのかなぁ」とぼんやり思っていたので、「あの人がなぜ!」と特に衝撃を受ける事件でもなく、「そうだよねぇ」とどこか得心するような気持ちなのでした。


自虐指向と破滅願望 不幸になりたがる人たち (文春新書)

自虐指向と破滅願望 不幸になりたがる人たち (文春新書)

 さて、表題の本について。精神科医の筆者が、患者だけでなく、「日常にいるけどどこか奇妙な人々」、いわゆる奇人・変人と呼ばれる類の方々から、微妙な違和感を感じる隣人に至るまで、その入念なウォッチの結果を私見とともに著したもの。
 すぐケガをする友人、全自動拝み機を何十年と作り続けた男、虎に食われるかわりに熊の檻に飛び込んだ主婦、二人の女の稚拙な誘拐犯、面倒なので妻の遺体を床下に埋めてその上で暮らした夫、などなど。事例だけならべると悪趣味なカタログのようですが、筆者のスタンスが一定して流れをまとめているので、そうグロテスクには感じなかったです。
 精神病者精神科医として治療できるが、personality disorderは治療の対象ではない。ではその治療の対象でない人々と、自分との違いは何か。筆者はその恐れを常に表明しながら、分析を進めていく。

自分は本当にコントロールできるか

 自分で自分をコントロール出来なくなるのではないか、といった不安を強く持っている人は少なくない。たとえば重大な会議やあらたまった席にいると、卑猥な言葉を叫びたくてたまらなくなる。今はそんな気持ちがまだ心の中に生じているだけだが、もし何かの加減で本当に卑猥な言葉が口を衝いて出てしまったらどうしよう。信用は失われ人格は否定され、羞恥心のために生きていくことも苦痛になってしまうだろう、と。(p.55)

 大概の場合は本当に実行することはないが、それが病気によって歯止めが外れてしまうことがあるそうな。

  • ジル・ドゥ・ラ・トゥレット症候群では汚言が伴うことがあり、4文字言葉の類を発作的に口にしたり、道行く人に特に意識なく「ハゲ!」と叫んでしまったりする。
  • ピック病(痴呆の一種)の初期段階では、脳の一部が萎縮するために「たが」が外れ、反社会的な人格に変貌してしまうことが多い。店先から物を盗む、他人に暴言を吐く、犬を殺す、等々。(私見ですが、風呂場で時計を盗んで捕まった学者さんもこれではないかと)

 病気によって「たが」は外すことができる。つまり、反社会的な人格は、完全に絶対的に堰き止められているものではなく、何かのきっかけではみ出してくる可能性があるものなのですね。


 自分の場合、「素っ裸で近所を走り回る、あるいは飛び回る」といった夢を十代の頃によく見ており、「はたしてこれは本当に夢の中だけの出来事で済むのだろうか、いつか何かの拍子に現実にやってしまうのではないか」という不安を持っていた経験がありまして。
 そんなわけで、今回の草なぎ君の振る舞いはそれを実現してしまったものであり、愉快なニュースとして受け止めると同時に、どこか人ごととは思えない親近感と恐怖感を抱くのであります。

法則性の性癖と、不幸の前倒し

我々はささやかな経験から何らかの法則性を導き出さねばいられない性癖を持っているのではないだろうか。たとえそれが主観的かつ個人的な体験のみに基づき、しかもあまりにも具体性を求めるがために、そのようなセオリーはときとして迷信にも似たおかしなものに成り果ててしまうにしても。(p.38)

そのような経験を思い起こすと、わたしにはひとつの考えが浮かぶ。より悲惨で、より大きな不幸を未然に防ぐべく、差し当たって小さな不幸を自ら引き起こして事態を収めようといった心の働きないしは精神構造が誰にもア・プリオリに備わっているのではないのか、と。(p.142)

 表題の「不幸になりたがる」ような行動をする人々について、筆者が推測したメカニズムが、この2つのパラグラフ。自ら編み出した奇っ怪な法則性から「このままでは不幸になる」と信じており、それを避けるべく、万引きなどの目先の小さな不幸に手を出し、捕まって安堵する。あるいは、アル中暴力夫から逃げた先が想像できず、また片親では子供が不幸になると信じるために(加えて環境を変える面倒さから)、離婚せずに小さな不幸を享受し続ける、等々。


 私が例えば、筆者の観察眼に適うレベルの「不幸になりたがる人」であれば、週末に原作映画を観て、こんな本を読み、今日ドラッグストアに入った瞬間『世界に一つだけの花』が流れ出したことに法則性を見出し、なおかつ昔見た裸で走り回る夢を関連づけ、「自分が草なぎ君と同じ境遇になるというサインなのではないか!」という妄想に囚われ、その大きな不幸を回避するために、現実に小さな不幸を引き起こしてしまうのでしょうか。
 ただ私は幸い、店で曲が流れ出した瞬間に吹き出すのをこらえるのに精一杯で、他にも店内に失笑している人を見つけてさらに愉快な気持ちになったくらいなので、今のところ、特に問題なく日常生活を送れている、はずです。


(追記)

 唐突に「狂気じみた」事件を起こした人物について、「普段の彼はまともな人物であった。いったいどこで正常と狂気の境目を越えてしまったんでしょうか」とコメントを求められることがある。
 それに対してわたしは、その設問は問いの立て方自体が間違っていると考えるのである。正常な人間がある日を境に狂気へと踏み込んでしまったというイメージそのものが謝っている。かなりの程度に精神が狂っていようとも、日常生活レベルではほとんどそれを感じさせないように振る舞えるのが、大多数の人間なのである。むしろ、相当に問題を抱えていようともそれに見合っただけの異常さを漏れ出させずに生きていける能力が人間には基本的に備わっているところに、わたしは恐ろしさを感じてしまう。(p.183)

 根本の恐ろしさはこれだよなぁ。ここまで読み進めると、冒頭から筆者が主張するように、「奇妙な人々」「違和感のある人々」と自分達の違いはどこにあるのか? という問いが、さらなるリアリティーを持って迫ってくる。