愛憎半ば

 今週ホッテントリに上がっていた、増田の民族関連の話を見て思うこと。そのテーマ自体に関することは一口に言えるものではないのだけど、総じてみんな文章がうまく、長年の思考の下積みを感じさせるものだなぁと。


 「ある一つの対象について、愛憎半ばの感情を抱き続けることは、その人の思考を深くする」ようだということを薄々思っていたのだけど、やっぱりそうなんだろうな。ポイントは、

  • 同じ対象に抱く感情であること。
    • 今回の増田達のような属性でも、特定の人物(家族とか)でもいいし、別に1つに限らなくてもいいんだけど。「Aさんは好きだがBさんは嫌い」というように、感情の対象物がばらけるのは含まないということ。
  • プラスの感情(愛情、愛着、誇りなど)と、マイナスの感情(嫌い、憎悪、無視など)が併存すること。
    • どちらかに偏ると精神の置き場を見失いがち。いい所だけを見て周囲が見えなくなるか、自分を認めない他者に攻撃的になるか、自己評価が低く厭世的になるか。
  • その感情が長年にわたって継続すること。
    • 継続するにしたがって、揺れ幅が小さくなり、上記の両面の感情が平衡状態になっていくのが望ましい姿か。ある意味、その人の「テーマ」。


 現実の世界というのは、好き・嫌いの二分法の世界ではなく、限りないグラデーションまみれの割り切れない場所であって、みんな多かれ少なかれ、遅かれ早かれ、そんな世界の実体を知っていく。増田達は、それに早くから気付いた(気付かざるを得なかった)人達で、これからも各人のテーマを抱えていく人達なのだと思う。そういう人は物語るのに非常に向いている。


 さて、そんな割り切れない世界を知らないままに働き始め、苦しみ、環境を変えた友人がいることを思い出す。
 「仕事するってことは、割り切れることばかりじゃないって知っている」とは言うし、理解を拒んでいる姿勢も表面上はなく、8割くらいの場面で通用する処世術を身につけているのだが、根本から理解しているわけではないのが行動に出てしまっていた。具体的な描写は控えるけど、つまり、その時嫌いな人に対しては、全てがNO、なのである。その態度を受ける側は、さらなる攻撃を仕掛ける。負のスパイラル。
 自分含めた友人が、何度の機会か、そこらへんを言葉でやんわりと伝えてみてはいる。本人も受け入れた様子だったのだけど、やはり根本までは変わらなかったか、かなりの惨劇があった模様。割り切れない状態をそのまま受け止めておくことができず、行動に表してしまうと、悩みの数だけは増え、思考は深まらない。
 友人は、次の環境で気づきを得ることができるだろうか。また、ある意味自分を戒めるためにも、文章として残しておこう。