「オレンジジュースをもとにしたカクテルをつくって、最後にオレンジを抜く」

 そうそう、さっきの対談を最初に読んだ時、すごく大事だと思った箇所があったのを思い出した。それがこのタイトルの言葉。このページを通しで読んだ方がいいんだけど、ちょっとだけ抜粋。

http://www.1101.com/MOTHER_music/10.html
糸井  それはもう、ぼくがふだんやってることぜんぶに通じますよね。
やっぱり、なんか刺激になるような、「すばらしいな」と思ったものが昔からあって、
そのときに味わった気持ちを、まずいったん借りてきたところで、
そいつといっしょにつくるんです。
ジョン・レノンといっしょにつくって、
 ジョン・レノンに別れを告げるとオレが残る」
みたいなことなんだ。
最終的にできあがったものにジョン・レノンはいないんだよ。
でも、ジョン・レノンがいないと──。

鈴木  できないんだよ!


 これ、ものを考える上での最重要ポイントですよね。
 まず先人のつくったもののインプットがあって、そこで素晴らしいと感じたことを手がかりに、考えてみる。つきつめて考えていくと、借り物じゃない、自分の部分が増えていく。その中から、最後に自分の考えた部分を取り出す…。
 「ほんとうに独創的な人は、何も知らなくても独自のものをつくり出せる」という神話のようなものがあります。そういう人もいるかもですが、割合としてはもう、何万分の一とか何十万分の一とか、もっと少ないことでしょう。
 だからほとんどの人は、こういうやり方で、自分の考えを見つけていく。自分ひとりの思いつきなんて、どう頑張っても、せいぜい半径1メートルくらいしか広がらないですもの。でも、こういう先人のルートを辿っていくと、すごく遠い川を渡れたり、高い山を登れたりすることがある。


 「誰にも生得的な個性があって、それをそのまま活かすべきであり、外部からの余計な情報はそれを阻害する」。個性を重視する教育、という言葉が使われるようになってからか、そんな風にインプットを敵視する風潮が、どこかで生まれたように感じます。
 それに対して私は、明確に、ノーと言わなければならないと思っています。言う場面があるかは、わかりませんけどね。